映画研究会

大学に入学した時のことだった。
ヒロミは上京したばかりで友達も少ないから何かのサークルに入ろうと思っていた。
高校時代は体育会系の部活をこなしていたが、自由になる時間が少なく、大学に入ったらもっと楽なサークルで遊びが主な活動のサークルに入りたいと思っていたのだ。

高校時代は時間も自由になるお金も少なく大好きな映画を見に行くこともあまりできなかったので、映画関係のサークルもいいなと思い、そんなサークルからあたってみることにした。

入学した時にもらった別冊のパンフレットにサークルの紹介が出ており、その中に一つだけ映画関係のサークルがあった。とにかく映画を見ることに主眼を置いているらしい。そこに書いてある地図を頼りにサークルの部室がある場所まで行ってみた。

サークルのある部室は古い校舎のゼミ用の教室を使っていた。
白い壁は薄汚れており、柱には手垢がついていて壁もところどころヒビが入っている。
ヒロミは地図を見るのが苦手だったがなんとか部室の前までたどり着いた。

グレーのペンキで何回も塗り重ねられた扉にサークルの名前が書かれたプレートが貼り付けられていた。

「映画研究会 UNICORN」

ゆ、ユニコーン??

その文字の下にはデッサンが崩壊している一角獣のイラストが描かれていた。


ユニコーンって、何?


ヒロミはドアのノブに伸びていた手をさっと引っ込めた。
大丈夫かな?と不安になったのだ。
その時、


なんか御用ですかぁ?

後ろから声がした。
ヒロミはビクッとして振り返りその声の持ち主の顔を見た。
ひょろっと背が高く、髪は無造作ヘアというよりは無造作過ぎる感じに思えた。
たぶんユニクロで買ったであろうシャツにジーンズ、さわやかな感じもしたがどちらかというとぶっきらぼうな感じで話しかけづらい。

新人さん?入部希望なの?

その男はドアのノブをつかんでドアを開けながらそう言った。
ヒロミはたじろいで小さく二、三歩下がり、

は、はい。

と答えた。
この時にはすでに70%帰りたいと思っていた。

その男は部室に入り一枚の紙を取り出して、名前と連絡先、所属学部をその紙に書くように言った。
ヒロミはとりあえず書いた。とりあえず書いておいて、いいサークルが他に見つかればそれに入ればいいと思ったのだ。

記入し終えたヒロミはその紙をその男に手渡した。

今度サークルの説明会やるからその時にいろいろ話聞けると思うんでその時きてください。今日はとりあえずそれだけです。
じゃぁ。

そういうとその男は振り返りセーブしてあったゲームをやり始めた。

ヒロミは唖然としたが、そういうもんだろうと思いなおして挨拶をして部室を出た。
振り返るとデッサンの崩れたユニコーンがこっちを見ているように思えた。

後でわかったのだがサークルの名前のUNICORNとは初代の部長がUNICORNというバンドのファンだったらしく周囲の反対を押し切ってつけたものらしい。


これがアキラとの最初の出会いになった。

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上司

朝の通勤電車はストレスそのものだった。
今まで自転車で学校やバイトに通っていたので、就職とともに生活はまるっきり変わってしまった。
時間をずらしてもどうにもならない。
一か月もするとどうにかして快適に通勤しようという思いはなくなってしまって、ただ心を失くしたように電車に揺られていた。

会社のある最寄り駅に着くころにはヘトヘトになっていた。
もとから人混みは苦手だったのだ。
会社の近くに引っ越そうかと思ったけど家賃が高すぎるので早々にあきらめてしまっていた。


こんなのいつまで続くんだろう?


もともとなんとなく就職してしまったので目的意識もなくすべてが苦痛に思えた。


会社では頑張り屋さんだと言われた。
頑張り屋さんだからといって仕事ができるというわけではない。
ただ負けん気の強さが表にでているらしく周りの人はそう言っていた。
ヒロミはとにかく今はこの仕事ができるようになりたかったし、就職することをきっかけにアキラのことを忘れようとしていた。
だから周りの人には仕事に対して熱意があるように感じられたのではないかと思っていた。

でも、ヒロミの気持ちは空回りしていた。
がんばろうと思うほどミスが増えた。
直属の上司の部屋に呼ばれ怒られることがよくあった。
その上司というのがヒロミの嫌いなタイプで無駄に太った体には敵意を感じていたし、怒られている最中はとにかく「はい、はい」と返事をして平謝りで早くこの時間が終わらないかということばかりを願っていた。
そういうヒロミを見て同僚達はいつも温かい言葉をかけてくれた。
その上司はヒロミには期待している、みたいなことを言っていたが同僚から見ると欲求不満のはけ口にされているように思えるようだったし、自分でもそうじゃないかと思っていた。

そんな無駄に太ったやつにバカにされるのがくやしくて、ヒロミは一人で遅くまで残業することもあった。
やり切れなかった仕事を自宅まで持ち帰えることもあった。
自宅で机に向い書類を作成しているとき、そういえばアキラもこうやって家でパソコンに向かって何かやっていたな、とその時のことを思い出した。
ヒロミはふと右の少し下のほうに目線をやった。
それは同棲していた時のアキラの目線だった。
その目線の先にはヒロミと青い魚がいる。
アキラはこんな感じで私と青い魚のことを見ていたのかな、と思った。


 
アキラも就職していろいろ大変だったんだろうなぁ。


 
ヒロミは就職してからのアキラのことを思い出していた。
朝起きた時の魂の抜けたような顔、ただいまと帰って来た時のやつれた顔、パソコンに向かう後姿、とにかく学生時代とはまったく変わってしまったという印象だった。

そして当時は自分が取り残されているような気持ちになっていたのを思い出した。
アキラの目線で自分の姿がぼんやりと浮かび上がりその周りにあった家具やテーブルなども次々と浮かび上がった。そして一つのことに気付いた。
いや、取り残されていたんじゃない、自分から世界を遮断していたんだと。

 
どうして自分のことばかりしか考えられなくなってしまっていたんだろう?
そんなアキラにもっとやさしくしてあげたかったなぁ。
アキラの好きだったコーヒーを入れてあげたりだとか夜食を作ってあげたりだとか肩をもんであげたりだとかそんなことしかできなかったかもしれないけど。


 

同僚がヒロミを呼ぶ声がする。
あぁ、またあの上司が呼んでいるようだ。
また怒られるのかな?
今度はどんな内容で?
どのくらいで終わるのかな?
あっ、始まった。
そうそう、一番最初に大声を出すんだ。
もう何を言ってるかわからない。
支離滅裂だよ、この人。
とにかく、はいはいと相槌していよう。
早く終わらないかな?
あぁ、今回は何となく長そう。
なんか唾がたくさん飛んでそう。
もういやだ、ずっとうつむいていよう。
あれ、だんだん声が小さくなってくる。
どうしたんだろう?
どんどん遠ざかっていくような感じがする。
あれ?

  

  

小さくなっていく上司のどなる声と交差するようにエアレーションの低い音が聞こえてきた。
その音の隙間から熱帯魚ショップの外の街の喧騒が浮かび上がってくる。
青い魚はヒロミの方を向いて水中であまり動かずにいた。
ヒロミは青い魚に引き寄せられるように、少し屈んで青い魚がいる水槽に顔を近づけて右手の手のひらを水槽のガラスにくっつけた。
それは手のひらを通じて青い魚と会話をしているように見えた。

ヒロミの心の中はアキラのことで満たされつつあった。
青い魚がヒロミの記憶の海を泳ぎながら、アキラの記憶を一つ一つ蘇らせようとしているようだった。


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転機

あの日から二人の間で何かが変わってしまった。
ヒロミはアキラからの電話やメールに返事はしたが自分から連絡を取るようなことはしなかった。
遊びに行こうと言われても疲れていることを理由に断っていた。
実際にアルバイトで疲れていたし日曜が忙しいようなバイトだったので、アキラの休日とはなかなか日が合わなかったのだ。


疲れていると言うとアキラは「元気出せよ」みたいなことをいつも言っていた。
でも、元気ってどうやったら出るのか忘れてしまったように感じていた。
それに自分が何か病気のように感じられてそのように言われるのは好きになれなかった。


そうじゃないのよ。


ヒロミはいつもそう思っていた。
言おうと思ったことは何回もあるが途中で飲み込んでしまっていた。
言ったところでどうにかなるものじゃないし、もし自分の思うようになったとしてもそれでいいとは思えない。
ただ今のままじゃアキラと二人であっても、昔とは変わってしまった空気感に耐えられないと思えた。ちゃんと目を見つめて向き合えることができるだろうか。
ヒロミは自分のことを強がりで負けん気が強いと思っていたがホントはただの弱虫なんだなと思った。
ただ逃げているだけなんだと。
アキラのことは嫌いになったわけじゃないし今でも好きだ。
こんな状態でも連絡をくれるのはうれしい。
どっちつかずの想いのまま淡々と毎日は明けては暮れていく、そんな毎日だった。

そんな状態は数か月続いた。
アキラからの電話は明らかに減ってきた。
電話口からは苛々しているのを感じられることもあった。
アキラには悪いと思いながらも謝れずにいた。
謝るっておかしいとも思っていた。負けず嫌いが変なところで顔を出す。
そんな自分が少し嫌になってきた。
好きな人とちゃんと向き合うってことは自分と向き合うことなんだろうなぁ。
アキラと向き合えないのは自分と向き合えてないからだと思う。
わかっていても何となく過ぎていく日々にすべてをゆだねているような感じだった。
自分で流れを変えていく力がなくなっているんだと思った。


そんなヒロミにも転機が訪れようとしていた。
そろそろ就職活動をしなければならない時期になってきたのだ。
特に希望の職種はなかったのだがとにかく決めなければ来年からどうすればいいのかわからない。
ヒロミはリクルート用のスーツを買った。
黒くて地味だなと思いながらそれを着て鏡の前に立ってみた。
なんだか似合わないけど今までの自分とは違うように見えた。

横からの姿や後ろをチェックしているとアキラが初めてスーツを着た時のことを思い出してしまった。


アキラがこの姿を見たらなんていってくれるんだろう?

就職が決まったらこの姿で会いに行ってみようかなぁ。


一瞬そんなふうに思ってみたが就職活動のことを考えると少し憂鬱になってきた。

ヒロミの就職活動はそれほど順調だとは言えなかったけど数社をまわったのちに一つの内定をもらった。普通の事務系の仕事で今の家から通えるしってことでそこに決めようと思った。その時はすでに木枯らしが吹き始める季節になっていた。

ヒロミはリクルートスーツを着てアキラの家の前にいた。
アキラは仕事がうまくいっていて業績も良いらしく仕事も忙しくなってきたらしい。
平日は会社の近くの会社の施設で寝泊まりしているようだ。
ヒロミはアキラに会おうと思って来たのではなかった。
過去の自分にいつお別れをしても大丈夫なように思い出を整理しにやってきたのだと自分では思っていた。
でもそんな整理なんてうまくいくはずがないということも分かっている。
思い出が心に蘇るたびに自分がアキラのことが好きなんだなという気持ちでいっぱいになった。大学時代のどんな思い出もアキラにつながっていく。
そんな思いをかき消すように冷たい木枯らしがヒロミの肩まで伸びた髪を乱していった。


期待と不安の社会人、みたいなことを言う人がいるがヒロミにはそれは面倒なことにしか思えなかった。とりあえず大学生ではなくなる。

春はもうすぐそこまで来ていた。


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夕焼け

アキラが出て行ったあともヒロミは涙が止まらなかった。
静かな部屋の中に自分のすすり泣く音だけが漂っている。
それが余計に寂しさを増していった。

ついには泣き疲れてその場で寝てしまった。

いったい何時間寝ていたんだろう?

ヒロミがようやく目を覚ました時はすでに日が西に傾きかけていた。
ゆっくりと起き上がり洗面所で自分の顔を見た。

なんてひどい顔なんだろう。

涙を流し続けた目はひどく腫れていて他人のようだと思えた。
洗顔フォームを手に取りゆっくりと時間をかけて顔を洗った。
顔を洗っている最中に思ったのは自分がなんだか淡々としているということだった。
感情が大きく振れて、泣き疲れて心も疲れてもう動けないというか、心に筋肉があるならば筋肉痛で動けないような状態なんだなとヒロミは思った。

身支度を整え、お気に入りの帽子を深めにかぶった。
そして、小さな青い魚を自分のハンカチで包み、ポケットに入れてアキラの部屋を出た。
それはいつもとなんら変わらないような行動だった。
いつも自宅に帰るとき、買い物に行くとき、学校に行く時とまったく同じだった。


でも、これを最後にアキラの部屋に来ることはなくなってしまう。


部屋を出たヒロミは自転車にまたがり川沿いの道に出た。
アキラと土手から転げ落ちてしまったあの道だ。
日当たりのいい風がよく通る眺めの良い場所をみつけて自転車をそこに停めた。
園芸用のスコップで穴を深めに掘り、そこにハンカチに包んだ青い魚を横たわらせ、餌もいれてゆっくりと土をかけて埋めていった。
その上に少し大きめの丸い石を置き、周りに花の種を植えた。

ヒロミは土手に座ってしばらくそこにいた。
もうすぐ夕焼けが綺麗な時間になる。
小学生くらいの子供達が何か大きな声で叫んで遊んでいる。
その声の隅で川の流れる音が聞こえる。
すこし風が出てきたようだ。

なんだか心地いい、しばらくこうしていようと思った。
今は何も考えたくない、何かをしようとかそんな思いもない。
自分をこの風の中に投げ出したならどこまでも飛んで行っちゃうような気がしていた。


そうなってもいいな、そしたらどこまでいけるんだろう?


子供たちがじゃれ合いながらヒロミの方に近づいてきた。
一人で座っているヒロミのことが気になったのだろうか。


お姉ちゃん何してるの?


その中の一人の子供が遠慮がちに上目遣いでそう言った。


えっ?


ヒロミは突然のことにびっくりして何も言えずに子供の顔を見上げた。
深めにかぶった帽子のツバが邪魔で顎を突き出すような格好になった。


これあげるよ。


子供はズボンの小さなポケットから土で汚れた手でキラキラ光る包み紙のキャンディを一つ取り出しヒロミの目の前に差し出した。
小さな手の上のキャンディは太陽の光を受けて輝いていたように見えた。


うわぁー、ありがとう。


ヒロミはそう言うと両手でそれを受け取った。
その時ヒロミは笑顔になっていた。今日初めて笑ったと思った。
ありがとうと言われて照れてしまったのか子供達は何か叫びながら走って行ってしまった。

ヒロミはくるっとキャンディの包み紙を解いてキャンディを口に含んだ。
フルーツの甘味が体中に浸透していくように思えた。
そして体の感覚が一つ一つ呼び起されてくるのがわかった。
そしてキャンディをボリボリと噛み砕いてしまった。
いつもの癖だ。キャンディを小さくなるまでなめていることができない。
噛み砕いていると自分がひどくお腹が空いていることに気づいた。
そういえば朝から何も食べていない。
ヒロミはゆっくりと立ち上がりおしりについた草や土を払ってから自転車に乗って漕ぎ出した。

今夜は何を食べようかなぁ。

西の空には遠くの山に今にも沈んで消えて無くなりそうな太陽が見えた。
オレンジに染まった雲がところどころに浮かんでいる。
ヒロミにはその夕焼けが子供が書いた絵のように思えた。


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電車

駅はいつもと変わらぬ風景だった。
ホームには人がごったがえしていてアキラもその中に紛れていた。
今にも雨が降りそうな雲行きで傘を持っている人もちらほら見える。
赤い特急電車がスピードを落とさずこの駅を通り過ぎる。
ホームに落ちていた紙屑が風に舞った。


この駅は。。

明日も明後日も10年後もおれがいなくなってからもずっとこんな毎日を繰り返すのだろうか。。

アキラの頭の中にヒロミの後姿が焼きついていた。
二人の間にずっと違和感があることも感じていたのでよくない予感もあった。

はっきり話せば、話し合えばよかったんだと思った。
でも何かを明らかにするのは勇気がいることだ。
はっきりしてしまうともろくも壊れちゃうかもしれない。
そう思うとこのままでもいいと感じていた。
いつかまた前のようにやっていける日々が帰ってくるんじゃないかと淡い期待を抱いていたのだ。

そういう気持ちはヒロミには伝わっていなかった。
一緒にいたのにヒロミには話さなければいけないことがたくさんあるように感じた。
本当に話さなければならないことを話していないように思えた。

帰ったらヒロミとたくさん話したい。

そういう気持ちがいまのアキラを支えていた。

仕事は先輩のフォローもありとりあえずうまくいったようだった。
アキラは先輩の誘いも断り急いで帰りの電車に乗った。

電車の窓から見える日が暮れた直後の町並みはどこか疲れているように見えた。
街灯が一つまた一つ灯るのが見える。
最寄り駅に着いたころには辺りはすでに夜の風が吹いていた。

アキラは自宅の玄関の扉を開けた。
電気が消えていたので、もしやと思ったがやはりヒロミの姿はなかった。
水槽の中に青い魚の亡骸もなかった。


アキラはヒロミの携帯に電話をかけてみたが電話には出なかったのでメールを入れてみた。
返信はなかったが、いろいろあって疲れて寝ているかもしれないのでそっとしておこうと思いおやすみのメールを入れて返信を待つことにした。
そのうちアキラも疲れていたのかウトウトし始めてついには眠りに引き込まれていった。

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ヒロミ

真っ暗な重いカーテンが目の前に下りてきたような感じだった。
全身の力が抜けてしまったようで体がバラバラになっていくようだった。

最初は事態がよく理解できなかったが次第に周りが見えるようになってきた。
そして何が起こったのかを再び理解すると激しい悲しみが襲ってきた。

ヒロミの目から涙が溢れてきてそれは頬の丘をゆるやかに曲がり床にポタポタと水玉模様を作った。
ヒロミはその水玉模様のできる様子を放心状態で眺めていた。


アキラの声がしている。。。

ヒロミはそう思ったが振り返ることもできずただ泣いていた。


青い魚は自分だと思っていた。
私たちは似た者どうしよね?といつも問いかけていた。

青い魚はなぜ死んでしまったのだろう?
アキラが餌をやり忘れたから?
寂しかったから?
青い魚が死んでしまった今、私もダメになっちゃうの?
この部屋の中でひとりぼっちで寂しくて死んでしまうの?

ヒロミの頭の中でいろいろなことが思い出され、それがすべて涙となってヒロミの目から溢れていくようだった。


しんじゃったね。。。


そばにいるアキラに話しかけたつもりだったがアキラに聞こえたかどうかわからないような小さな声だった。
アキラがスーツに着替えているのがわかった。


やっぱり仕事に行くんだ。。。


仕方ないことだと自分に言い聞かせた。
でもやっぱり寂しい。。。


玄関ドアの閉まる音がした。
音のない部屋にヒロミはポツンと取り残されたような気分になった。
青い魚がいなくなった今本当に一人ぼっちになってしまったんだと思うとまた涙が溢れてきた。


ヒロミは何かの終わりを感じていた。

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アキラ

物音と人の気配でアキラは目が覚めた。
ヒロミが来たんだろうと思い、目を開けるとそこには生気を失ったヒロミの後姿があった。


どうしたの??


アキラはその後姿に動揺して、抑えた声でそういうと慎重にヒロミの方へと近づいていった。


あぁぁ・・・


アキラは瞬時に事態を飲み込めた。
しかし何も言葉を発することができなかった。
というのはヒロミの今まで見たことないような落胆ぶりにどういう言葉を使えばいいのかわからない。
青い魚が死んでしまったのはとても残念だが今はヒロミのほうが気になる。


あぁ、、残念だね。。。大丈夫??

アキラはうなだれたヒロミの肩をやさしく抱き寄せてそう言ったがうつむいたまま返事を返してこなかった。
アキラは心配になりヒロミの顔を覗き込んだ。
そしてゆっくりと体を起こした。

ヒロミの目からは涙がとめどなく溢れ続けていた。
体に力が入らないらしく首もすわりが悪い。


ヒロミ、大丈夫??


何回もアキラはそういった。
それくらいしか言葉が見つからなかった。
しっかりと肩を抱いて頭を自分の方に寄せながらしばらくずっとそのまま慰め続けた。

この部屋の時間が止まっているような感じを覚えた。
何も音がしないこの部屋。
たまに車の音が遠くから聞こえてきた。
実際に青い魚との時間は止まってしまったのだ。
ヒロミが小刻みに震えているのがアキラにも伝わってきた。


どうすればいい??

アキラは自問自答していた。

そうしているうちにアキラはヒロミを抱きながらも現実に引き戻されていった。
時計をみるともう用意をしなければならない時間だ。
今日は大事な商談がある日でアキラはその仕事の一部を任されていたのだ。
ヒロミがこんな状態なら仕事なんて休んでもいいと思えたが今日だけはそうはいかない。


大丈夫??おれ、今日は大事な仕事なんだ。行かなくちゃ。。。


アキラはヒロミの顔を覗き込みながらそう言った。
そしてヒロミの肩を強く抱きしめていた手をゆっくりとほどき身支度を始めた。

ヒロミはずっとそのままの状態で涙もぬぐわず泣き続けていた。
泣き続けていたというよりも涙の止め方を忘れたようだった。

身支度を終えたアキラは再びヒロミの所に戻ってきた。
時間の許す限りヒロミを抱きしめていようと思った。


しんじゃったね。。。


ヒロミはかすかな声でそうつぶやいた。


うん。。。ホントに残念だね。。。


アキラはそう答えた。
会話はそれっきりだった。


じゃぁ、おれそろそろ行かなきゃ。。
ゴメンね、終わったらすぐ帰ってくるからね。


そういうとアキラは鞄を持ち玄関の方へと向かった。
靴をはき振り返るとヒロミはまだうなだれたままだった。


終わったらすぐに帰ってくるから!


少しだけ大きな声でそういうとアキラは玄関のドアを閉めた。


ドアがしまる音が音のない部屋に寂しく響いた。

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ある朝

月日が流れても二人の状況に変わりはなかった。
ただ、二人の間の見えない隔たりはさらに大きくなっていった。

アキラは酔って帰ることもありヒロミはどうしていいかわからないような感じを覚えた。
アキラが別人のように思えたこともある。
二人で決めた餌やりの当番もアキラは忘れるようになっていた。
それに対してヒロミは今までの不安をぶつけるように怒った。
寂しさや苛立たしさ、どうにもならない状況に対しての思いを餌をたまにやり忘れるアキラに対してぶつけてしまうのだった。


ごめんね、わすれないようにするから。。。


アキラは素直に謝るのだがそれもヒロミを苛立たせた。
アキラは悪くない、謝らなくていい、なんで謝るの?ヒロミはそう思い、今度は怒った自分を責めるのだった。
もう、どこに感情をぶつければいいのかわからない。
苛立った感情の行き場を探しているようだった。


 
ヒロミは一人の時によく青い魚に話しかけていた。

なんでお互いに好きなのにすれ違わなきゃいけないの???
もう元には戻れないの??

アキラには涙を見せたことはなかったけれども青い魚の前ではポロポロと涙をこぼすこともあった。
ヒロミは青い魚のことを自分と重ねて見るようになっていた。
水槽の中で一人でいる青い魚がアキラの部屋の中で一人で過ごす自分と同じように思えて好きという感情よりも自分自身だと思うようになっていたのだ。


  
ある朝のことだった。
自分の部屋で寝ていたヒロミは朝の支度をしようとアキラの部屋を訪ねた。
ドアを開けて奥の方に水槽があるのだが今日はいつもと様子が違っていた。
カーテン越しの朝の光の中でいつも水槽の中にいた青い魚の姿はなかった。

悪い予感がした。

近づいてみるとその青い胴体を天に向けて青い魚は動かなくなっていた。


青い魚は死んでしまった。


ヒロミは高く積み上げた積木が一気に崩れるように床にへたり込んでしまった。

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隔たり

ヒロミの不安は的中しつつあった。
それはしだいにヒロミの心の中の大部分を占めるようになってきた。

アキラは目に見えて帰りが遅くなり帰ってきてからもパソコンでなにか作業をしているようだった。
その後ろで青い魚を眺めながらアキラの様子をうかがっていたヒロミはアキラがやつれてきたのに気付いた。
ヒロミは頑張っているんだなと思いつつもそのアキラの領域に入っていくことができず何か隔たりを感じていた。
うまく言葉に表せない感情が湧いてきてそれはきっと寂しいということに似た感情なのだと思った。
この感情をアキラに伝えることもなく、伝えることもできないのだけれども私も頑張らなきゃなという思いでこの寂しさめいたものから抜け出す毎日だった。

 
その隔たりは月日が経つほど大きくなっていった。


 

ヒロミはアキラの部屋で一人でいるのがつらくなり自分の部屋に帰るようになってきた。
アキラの部屋にいると楽しかった思い出がそこらじゅうにありそれがメリーゴーランドのようにグルグルと回りだすような妄想を抱くようになってしまったのだ。
学校の授業にも余裕が出来てきたのでアルバイトを始めた。
アルバイトが忙しいとアキラが休みの土日も出勤しなければならず二人はとうとうすれ違うようになってきた。


 
ヒロミはもうどうしようもできないと感じていた。

楽しかったあの頃に戻りたいのでもない。戻れないのはわかっている。
ただ今の状況は寂しい。でもどうすることもできない。
アキラは頑張っていると思う。誰も悪くなんかない!
でも、寂しい。。。


ヒロミはある種の苛立ちを覚えてそれを働くことで忘れようとしていた。

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就職

アキラの就職はあっさりと決まってしまった。
採用が決まったその日は二人でささやかなパーティーをした。
ヒロミはこれからのことをアキラに話そうと思ったけれど話せなかった。
先のことをはっきりと決めてしまうのは怖いと思った。
それよりも今はこの時間を大切にしようと考えたのだ。

ヒロミはアキラとの残りの学生生活を目に焼き付けるように心に刻むように過ごしていった。
二人で歩く夕焼けの帰り道、踏切前の信号の点滅、自転車に乗るアキラの背中、すべてを忘れたくないと思ったし、いつでも思い出せるようにと大切に心にしまい込んだ。
写真もたくさん撮った。一緒に食べたご飯、ヒロミの自転車、熱帯魚ショップ、たわいもないところまで一日に何枚も撮っていた。

とりあえずおれが働き出してからも今まで通り生活していこうということをアキラは言ってくれた。
ヒロミはうれしかった。
うれしかったけど、不安はぬぐえなかった。
来年度から一人で学校に行くのははっきりいって気が重い。
でもそれは仕方のないこと、大人にならなきゃなー、といつも思っていた。

  

とうとう離れ離れの生活がやってきた。
離れ離れではないのだけれどもヒロミにはそう思えた。


これから私たちどうなってしまうんだろう?


そう思ったが初日は元気よく送り出そうと思った。


いってらっしゃーい!

いってきまーす!

えへへ、なんか奥さんみたいでしょ?

ばーか。。

アキラは照れ笑いを浮かべながらそう言った。  


そろそろヒロミも学校に行く時間が近づいていた。
ヒロミは淡々と支度を終え自転車にまたがった。

私もがんばらなきゃな!

春のやさしい風の中をヒロミの自転車は走りぬけて行った。

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スーツ

ヒロミとアキラと青い魚の生活は順調だった。
ヒロミは幸せという言葉を口にするようになっていた。
日が昇って日が暮れる、そんな単調な毎日でさえ大切に思えた。


でも今のヒロミにはひとつだけ不安があった。
アキラが今年で大学を卒業してしまう。
そのためにこれから就職活動をしなければならない。
アキラが就職したら来年からは一人で大学に行かなければならないし、一緒にいれる時間も限られてくるだろう。
そういう日が迫ってきているのだが充実した毎日がそれを忘れさせていた。


 

その不安が具体化する日がやってきた。
アキラのスーツ姿をヒロミは初めて見たのだ。


へぇー、似合ってるじゃん。。


そぉ?かっこいい?


ヒロミは近くから遠くから、首をかしげながらアキラを見つめていた。


そうしているうちに少し寂しい気持ちになっている自分に気がついた。
アキラが遠くに感じられてしまったのだ。
だんだんと遠くに離れていってもう取り返しがつかないような気分に襲われアキラに抱きついてしまった。

おぉ、どうしたの?

えへへ、実はスーツフェチ。

こういうのが好きなんでしょ?このネクタイをこうやって緩める感じ。

あるある!それそれー!


 
ヒロミはおどけて見せた。

なんかアキラが遠くに行ってしまいそう。。。

心の中ではそうつぶやいている自分がいた。


 

就職活動の初日、ヒロミはアキラを送り出そうといっしょに玄関の外まで出た。


それではいってらっしゃいませ!

ヒロミはアキラに敬礼した。

がんばるであります!
フフフ、終わったらすぐ帰ってくるからね。

そういってアキラはヒロミに手を振り駅の方向にあるいていった。
ヒロミはアキラを送り出した後しばし空を見上げていた。
晴れ渡った空に雲が少し浮かんでる。
部屋に戻ったヒロミは青い魚の水槽の前に座り込んでずっと青い魚を見つめていた。

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記憶

あふれてくる湧水を手で押さえつけるようだった。
指の間からどうしても滲んでこぼれて行ってしまう。
その水滴が何かにぶつかって弾けるたびに記憶が一つ蘇るようだった。

やがて湧水の勢いが増し、ヒロミの小さな手では押さえつけることができなくなり、力も尽きてしまった。


ヒロミは記憶を解放した。

今まで忘れようと思っていた思い出の数々。
忘れて新しい自分に生まれ変わろうとがんばっていた自分は次々と溢れてくる記憶の濁流に飲まれていった。

就職するまでアキラのことを忘れた日は一日たりともなかった。
心の底から笑ったことなどなかったのかもしれない。周りの人には気づかれないよう明るく装っていた。
なんであんなに意地を張っていたんだろうと自分を責め続ける毎日。
これじゃ自分がダメになると思い就職と同時に忘れようと決心したのだった。
辛い決心だったけどこれが大人になることだと自分に言い聞かせ続けていた。


ヒロミは熱帯魚ショップの青い魚の前で立ちすくみ、動けなくなっていた。
記憶の濁流に飲まれながらも必死に耐えていたのだ。


セーターの毛糸をはらはらとほどいていくようにヒロミの心が露わになってきた。
あたかも青い魚がその毛糸の先を咥えてほどいていっているように。


むき出しになったヒロミの心。

それは風が吹いただけでも空気との摩擦で傷つきそうだった。
それはもしかしたらはじめての体験だったのかもしれない。
いつも何があっても心には触れないように大切に何かで包み込んでいた。
それが危機的に心を動かされる場面でも最後の最後に自分を守ってくれた。
今、その包むものを失くしてしまったのだ。

ヒロミは目に涙が溢れてくるのを感じた。
自分の心を自分の手で包み込むようにして涙を必死にこらえようとしていた。

青い魚は水槽の中を自由に泳ぐのをやめたようでヒロミの方に顔を向け水中を漂っていた。

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青い魚

次の日からヒロミとアキラと魚との共同生活が始まった。
ヒロミは水槽の前でずっと魚を眺めていることが多くなった。
その姿がなんとも子供のようでかわいく思ったアキラも、顔をヒロミにくっつけんばかりに側によって一緒に魚を眺めた。
あまり元気がないようだがこんな魚なんだろうなとアキラは思っていた。
ひれは動かしているようだが時々方向転換するくらいであまり運動をしない。
それでもヒロミは飽きずに眺めていて時折何か話しかけているようだった。

餌をあげるのを毎日交代の当番制にすることにした。
ヒロミが言い出したのだ。
ヒロミはアキラにも魚をもっと好きになってほしいと思っていた。
餌は自分がやれば問題ないのだけれどアキラにもあげてほしかったのだ。
カレンダーの数字にマジックで色分けして予定表を作った。

ヒロミはアキラが餌をあげるところを見ているのが好きだった。
餌がアキラの指から離れ水中にはらはらと降りてきてそれを魚がパクッと食べるところがすごくかわいいのだ。
水槽は窓辺に置いていたが食事のときはテーブルに移動して一緒に食事していた。

ダメっ!お腹壊すでしょー!?

ご、ごめん。。。そんなに怒らなくても。。。

アキラはご飯粒を魚にあげようとしてヒロミからこっぴどく怒られることもあった。


ヒロミとアキラと魚の生活は順調だった。
ヒロミもこの生活が気に入っていて一生こんなふうに生活できたらいいと思うようになっていた。
アキラもすっかり魚のことが好きになったようで、ヒロミに魚の話を聞くようになっていた。
そのこともヒロミは好きだった。好きな人が自分の好きな物を好きになってくれている、この事実だけでも幸せになれると思った。
アキラも魚を飼ってよかったなと思っていた。ヒロミも楽しそうだし自分も魚が好きになり熱帯魚図鑑を買って帰ってヒロミを驚かせることもあった。
何よりもこのヒロミと魚と自分との生活空間が愛おしいと思えた。


3か月ほど経った朝のことだった。
いつもより早く目が覚めたヒロミは隣で眠るアキラごしに水槽の方に目をやった。


あれ?なんかおかしいなぁ。。。


ヒロミは眼をこすってもう一度水槽に目をやった。


あっ!!


ヒロミは飛び起きて水槽の前に移動してそこに座り込んだ。
そこにはここにいるはずのない色をした魚がいた。


アキラ!ちょっと起きてよ、早くー!!

う~ん。。なぁにぃ?


アキラは寝癖のついた髪をぼりぼり掻きながら目を開こうと努力していた。


見てよ!ほら!魚が!!


アキラは水槽の前に行きヒロミの隣に座った。


あぁ!!すごい!!綺麗だねーー!!でもなんでだろうね???


そこには青黒い魚の姿はなく、綺麗な透き通るような青い色をした魚がそこにはいた。
青い魚は柔らかい朝の光を浴びながら悠然と水槽の中を泳いでいた。


うん、不思議だね。。。でも綺麗!!


二人はパジャマ姿で顔を寄せ合って水槽を眺めていた。

ヒロミは熱帯魚は環境で体の色が変わることがあるという話を思い出していた。

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熱帯魚

とある夏の午後のだった。
いつものように二人で自転車で学校から帰っている途中にヒロミは財布に新しくできたファーストフード店の割引券があるのを思い出した。
早く使わないと期限が切れてしまう。


ねぇ、これあるんだけど食べて帰らない?

あぁ、これあそこかぁ。全然逆なんだけどいってみようか。うまそうだねー!


いつもの帰り道とは駅をはさんで逆方向になる。
あのあたりはあまり用もないし行く機会もなかった。
駅近くの踏切を渡らなくてはいけないしかなり面倒なのだ。
近いけど遠い町、そんな表現が似合っている。

この駅の商店街の裏手になるので少し寂れているのだがそれでも人通りがある、そんな場所にその店は建っていた。
ヒロミもこちらの商店街にはあまり来たことがなくキョロキョロと落ち着かない様子だった。


あっ!あれ!見て見て!


ヒロミは興奮した様子でとある店舗を指差しアキラの顔を見た。
目がいつもよりも増してキラキラしているのに気づいたアキラはどうしたのかなと不思議そうにヒロミの指さす方に視線をうつした。


そこは熱帯魚ショップだった。

お世辞にもきれいなお店だとはいえずずっとここで営業しているのだろうと思った。
店舗の入り口のショウウィンドウに水槽があり綺麗な魚が泳いでいる。
ヒロミはショウウィンドウに貼りついてしまった。


ねぇねぇ、ちょっと見ていってもいいかな?


キラキラした目がそういうのでアキラは思わずうなずいてしまった。
店に入るとそこは自分が水の中にいるような錯覚を覚えた。
店自体があまり大きくないので水槽が棚に積み上げられている。
振り返れば魚がいる、そんな状態だったのだ。

ヒロミはあれもこれもというような状態で落ち着かない様子。アキラにいろいろ魚について説明を交えながら店の中を徘徊していた。
バスガイドのようだとアキラは思った。
そうしているうちに一つの水槽の前で立ち止まって動かなくなってしまった。
アキラが覗き込むとそこには水槽に一匹の熱帯魚がいた。
小さく青黒い色をしたその熱帯魚は泳ぐというより水槽の中で佇んでいるようだった。
水槽の右上に値札が貼り付けられており、何度も値段が斜線で消されていて安くなっているようだった。売れ残ったのか売れないのかわからない。
でももう店側としては処分したいのかなと思った。


ねぇ、この子飼わない?かなりお得になっているみたいよ?

ヒロミはキラキラした瞳でそういった。

うん、飼おうっか!何か飼いたいねって話してたもんね。熱帯魚ならそれほど苦にならなさそうだし。。。でもこれ色があまり綺麗じゃないかも?

ううん、そんなことないよ。この子はかわいいよ。
毎度ありがとうございまーす。


ヒロミにはこの熱帯魚に何か別のものが見えているような感じだった。
店員さんを呼んで水槽から餌から1セット選んでもらってアキラは昨日もらったバイト代からその代金を払った。

その後、忘れかけていたファーストフード店に行きテイクアウトしてからまた自転車を押しながらアキラの部屋に帰って行った。

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熱帯魚ショップ

博美は熱帯魚ショップの前の歩道にいつものように自転車を停めショップに入って行った。

たぶん父親とその娘だろう二人がこのショップの店員だ。
だからそんなには大きくないし内装もオシャレではない。
でも、一通りの設備、魚などが揃っており、一応の熱帯魚ショップとしての体裁は整えていた。
父親はいつもレジのところの棚の上に置いてあるテレビを見上げていた。真剣に見ているのか見ていないのかわからないがあまり動かない。
一方、娘はよくこまごまと動いて働いていた。
本当に熱帯魚が好きなんだろうな、と博美は思っていた。


いらっしゃいませー。


娘の方が博美に挨拶をくれた。博美は少し笑顔を作って会釈した。

よく来る店ではあるのだけれど博美はそれほど店員とは親しくしていなかった。
たまに娘のほうが声をかけてくれることがあってその時少し話すくらいだった。
来ても買い物はしないし良い客だとは言えない。


博美はショップの一番奥に歩いて行った。
そこには正面、右左に天井まで全部棚になっていてたくさんの水槽があり色々な魚が泳いでいた。
ブラックライトに照らされた熱帯魚はひときわ美しく見えた。
エアレーションのモーターの低い音がなぜか気持ちを落ち着かせる。
博美はいつもの場所に立ち、魚たちの点呼をはじめた。
心の中でいつも話しかけるのだ。
魚たちのひれの動き、餌を食べるところなど食い入るように見つめていた。
どの子が誰かに買われていなくなってどの子が新しく入ってきたか、などは店員同様によくわかるくらいだった。


 

  
点呼の途中だった。
博美の真正面の水槽に新しい子がいるのを発見した。
大きな水槽に一人だけ。
新入りの知らない子なんだけど充分すぎるくらいに知ってることに気づいた。
気付いたとたん心臓が一つ大きく鼓動した。


 
この子は?・・・


 
思わず娘の方の店員さんに聞いてしまった。
これは珍しいことだった。
話しかけられることはあっても博美の方から話しかけたりはなかったのだ。


あぁ、その子ねぇ、昨日入ってきたのよー。
綺麗な子でしょー?


ブラックライトに照らされてキラキラと透き通るような青い色をした小さな熱帯魚がそこにはいた。

博美は心の奥の方にある何かが反応したのに気づいた。
いままでずっと自分で見えないようにして隠しておいたもの、幾重にも壁を編み上げて消し去ろうとしていたものがあらわになっていくのを感じた。
喜びや楽しみ、悲しみや寂しさなどのすべての感情をそこに押し込めて鍵をかけていたのだ。

 

博美は茫然と立ち尽くした。
心が震えるのを手で押さえつけようとした。
震えが指の隙間から洩れていくように感じた。
 

 
博美はこの青い魚を飼っていたことがある。


  


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社会人

博美はこの深い傷に爪を立てるのが癖になっていた。
何かと無意識のうちにやってしまう。

駐輪場から自転車を出して押して歩いた。
このあたりはまだ人が多く押していった方がスムーズだ。


博美は入社して社員研修を終えてとある部署へ配属された。
仕事は好きでも嫌いでもなかった、というのはこなしていかないと生活できないからだ。好き嫌いとは別次元のものだ。
仕事ははっきりいってうまくいってなかった。
持前の負けん気の強さでがんばるのだが、そのがんばりがどうも見当はずれのようなのだ。
上司に怒られるのが日課になってしまった。
同僚にももっと力を抜いてリラックスするように言われるのだが、言われると逆にもっと力が入ってしまう。
何かに対してむきになっているように思えた。


休日に気晴らしにどうかといろいろと遊びに誘ってくれる同僚の気持ちはうれしかったのだけれど、休日は何も考えたくないし気も使いたくない。何か未来に約束することさえプレッシャーに思えた。

  

そんな毎日を送っていた博美だったがひとつだけ楽しみがあった。
それを思いつくといつもこれは名案だと自分で思えた。

いつもとは違う、方向から見れば逆方向の道を使っても家に帰ることができるが少し遠回りになってしまう。その遠回りの道を使う理由は熱帯魚ショップがある、ということだった。


博美は熱帯魚が好きだった。


水槽の中の熱帯魚を見ていると不思議と心が解きほぐされていくのを感じた。


今日、ちょっと見に行ってみようかなぁ?


そう自分で思いつくと、いつものようにそれはすごく名案のように思えて楽しくなった。
博美は人がまばらになってきたので自転車にまたがり熱帯魚ショップへと急いだ。

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半同棲

博美とアキラの恋愛の芽は順調に育っていった。
博美の勝気な性格をアキラは大きな心で包み込んでいるような感じだった。
実際自分のことをアキラという大きな水槽の中で自由に泳ぐ熱帯魚のようだと思っていた。

二人の家が近かったこともあり半分同棲のような生活が始まった。
アキラの部屋のほうが若干広かったので、博美は自分の部屋にいるよりもアキラの部屋にいることの方が多くなってきた。
実際日当たりもよく窓を開ければいい風が入ってくる、そんな部屋だったのだ。


当初の博美の任務はアキラの部屋での自分の陣地の拡大だった。
それはまず定番の歯ブラシから行われた。
歯ブラシを置く所に仲良く並んでいるピンクとブルーの歯ブラシを見るとそれだけでニヤニヤしてしまった。
洗面台には化粧品を並べた。
自分の茶碗、お箸とペアのお皿など徐々に増えていき、博美の任務は着々と遂行されつつあった。

ある日、アキラの留守にしている間に博美は自分の下着や洋服、ジーンズ、パジャマなどを大量にアキラの部屋のクローゼットにねじ込んだ。
これで任務完了です!と敬礼をして自分の家に帰ったが、その夜アキラから電話がかかってきた。


何だよー!!びっくりしたよー!!何これ??


アキラは笑いながらそう言った。


任務完了です!!


博美は元気よく答えた。


任務って何よ??あっ、こんなパンティ。。。おれ、履いちゃおうかなぁ。。。ふふふっ。


ぐあーーーーっ!!!やーめーでーぐーでーーーっ!!!!


ふふふっ。。。まぁ、いいんだけどちゃんと洗濯してくれよな。あんまり外には干せないなぁ、これ。。。


えへへ。。。

 
 

サークルの帰り、博美の自転車で二人乗りをして帰ることが多くなった。
博美は自転車が好きだった。
車よりもバイクよりも自転車が好き。もし自分に翼をくれるものがあるとしたらそれは自転車だと思えた。

アキラが前に乗って博美はいつも後ろに乗った。
前に乗ることもあったけれどいつも途中で交代してくれた。
博美はアキラの背中のぬくもりを感じながらゆったりと流れていく見慣れた景色を見ているのが好きだった。

自転車の後ろに乗り、チョコチョコといたずらをするのも好きで博美の一つの楽しみになっていた。
アキラは二人でよく見ていたお笑い番組のリアクション芸人のものまねをしてくれるのでそれが楽しかったのだ。


だーれだ?


うわっ!!見えねぇよ!!!やめてくれよーーー!!!


えへへっ。もう一回やっちゃおうかなぁー?


いや、もういい。お腹いっぱいでしゅ!


ほんとー?。。。だーれーだっ?


博美は失敗したと思った。アキラのほうばかりに気を取られていたので状況を見誤ってしまったのだ。
二人を乗せた暴走自転車は道を外れ高さ3メートルほどの急な土手を下って行った。


わーーーーー!


あまりのことに気の抜けた叫び声を上げた。博美は身を固くし目隠しをする手にも力が入ってしまった。
土手を下ったところで二人は自転車から草むらに投げ出された。
自転車はしばらくそのまま進み民家の石の塀にぶつかって倒れた。


だ、だいじょうぶ??


う、うん。。。


アキラは自分のことよりも博美のことを心配して声をかけてくれたが、博美は申し訳なく思いちゃんと目を見れずにうつむいていた。
二人はお互いの服に付いた土埃を払いあって怪我はないか確認したがちょっと擦りむいたくらいでほとんど怪我はなかった。
倒れた自転車を起こしてブレーキやペダルなどをいろいろ見てみたが壊れてはいない。

ただ、ハンドルのゆるいカーブを描いた場所に深い傷ができてしまった。


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アキラ

出会いは突然やってきた。
学生時代、初夏の大学のキャンパスを友達と二人で歩いていた博美は後ろからの聞き覚えのある声で呼びとめられた。


博美さん、ちょっと時間ある?


その声の持ち主はサークルの先輩のアキラだった。
今まで見たことない表情をしている。
博美は事態をすぐに理解できた。
自分の顔が熱くなるのを感じ、それを悟られまいとうつむいてしまった。。


好きなんだ。。つきあってくれないかなぁ。。。?


その日二人は一緒に学校を後にした。
博美は自分の自転車を押しながらアキラと歩いた。
博美とアキラは割と近くに住んでいてサークルの帰りにはよく一緒に帰っていた。
今日もその時とまったく同じ光景なのだが博美は胸のドキドキが収まらなかった。
博美はこの学校に入学して以来、アキラのことをずっと目で追いかけ、ずっと想っていたのだった。


博美は帰ってからも興奮が収まらずどうしていいかわからずお風呂に浸かることにした。
お気に入りのバスボムをいれてゆっくりと肩まで浸かった。
口元まで浸かってブクブクブクブクと泡を立てたり伸びたり縮んだりして落ち着かない。
鏡をみて百面相をしたり。。。


うへへへ。。。


自分がかすかに笑っていることに気付き、自分のことが少し心配になった。


そうこうしている時だった。
携帯の呼び出し音が聞こえてきた。
あの音は!そう、アキラだった。
博美はバスタブから勢いよく飛び出しそのままバスタオルを持って携帯を取った。


今日はありがとう。。。おれ。。うれしかったよ。。


博美はまたドキドキ病が再発した。
何か言わなきゃいけない、どうしよう?どうしよう?どうしよう?


よろしくお願いします!!


あぁ、やってしまった。。。もっと何かなかったのかよう。。
これじゃいつもの先輩後輩の会話じゃんかよう。。。
そう思い、床にへたり込んでしまった。


フフフ。。。こちらこそよろしくね。
じゃ、また明日。


この「じゃ、また明日」はいつもサークルの帰りにアキラが使う挨拶の言葉だった。
でも博美には今までの「明日」とこれからの「明日」では全然意味が違ってて、今アキラが言った「明日」はキラキラ輝いているように感じられた。


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駐輪場

横断歩道を渡りきったところに大きなショウウィンドウがあって、ディスプレイが黒っぽいせいか鏡のように辺りを映し出していた。
黒いサテン生地の大きな布が波紋のように広がっていてそこにジュエリーと小物が置かれている。
朝はこのガラスに自分を映して洋服のチェックをするのが日課になっていた。


ここのガラスに今まで何人の人が映ったんだろう?


ガラスに向かって自分の姿が近づいてくる。。。
信号の青、ラーメン屋の品のない看板、多彩なイルミネーションがガラスに映り込んでいた。
その中で博美は自分だけ白黒の写真から切り取られ、コラージュされたような存在のように思えた。
実際黒っぽいスーツに白いシャツ。色がない。
でもそれだけではなかった。自分だけ異質な存在のように思えた。
風景に溶け込めない白黒の人形。その人形があやつり人形のように人ごみの中を歩いている。


横からの自分の姿を見ながら左に折れ、その先の路地にはいったところにある駐輪場へと向かった。
駐輪場は隙間もないほど自転車が並べられており自分の自転車を探すにもすぐには見つからないほどだった。両側の自転車をずらして自分の自転車を取り出さなくてはならない。

博美の乗っている自転車は古くも新しくもなかった。大学時代から使っていて通学にも使っていたが大切に使っていたためだろう。
ハンドルのゆるいカーブを描いたところに深い傷があった。
これは思い出の傷だった。この傷があるために自転車を大切に使っているのかもしれない、と客観的に思ったことがある。当時付き合っていた彼氏とふざけて二人乗りをして転んだ時についた傷だった。


博美はその傷を爪でカリカリと引っ掻いていた。

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あぁ、赤だ。。。


正確には赤に変わっていない。
歩行者用の信号が点滅し始めた。
周りの人たちは赤になる前に渡りきろうと小走りになった。

早く帰っても。。。何があるというのだろう?

急ぐ人たちの後姿をぼんやりと眺めながら博美はそう思った。


都心から20分ほど電車で下るとどこにでもあるような町だ。
下りの電車は都心からの通勤帰りの人をひっきりなしに運んでくる。
博美もその中に紛れていた。
駅の西口を出ると小さなバスロータリーがあり、それを抜けるとそれなりにおしゃれに食事ができるお店や居酒屋、バー、コンビニ、スーパー、レンタルビデオ屋など普通に揃っていてここから一生出ていかなくても生活できそうだと思えた。
これらの商店が連なって作られた商店街を抜けたところに大きな道路を横切るための信号がある。


疲れているのよ。


同僚はそう言っていたし、実際に疲れていた。
研修期間も終わり、スーツ姿もそれほど違和感がなくなってきた頃である。


どうして。。。いや、やっぱり考えるのはよそう。


同僚の言うように疲れているんだと自分に言い聞かせた。
疲れていることにすれば何も考えなくて済む。明日になって元気になればすべてうまくいくのだ。そう言い聞かせることにした。


この町に住んでどれくらいになるのだろう?
かなり月日が経ったように思えるがそうでもないような気もする。とにかく上京してからずっとこの町に住んでいる。そろそろどこか知らない土地に引っ越したほうがいいのかなぁ?なんか最近町がよそよそしいんだよね。。もう出て行けってことなのかなぁ?大学時代によく行ったあの店もなんだか行く気にはなれない。。。


青信号を待っている間にいろいろなことが頭を過った。
時計は午後八時を指している。あたりはすっかり夜の気配で夜の喧騒が鼓膜張り付く。人の笑い声、車の走る音、靴の音、しゃべる自動販売機、バスの車内放送などが一気に同時に耳に入り込む。耳を塞いでみても夜の街を見るだけでこれらの音が聞こえてくるような気がした。


肩に後ろから人がぶつかってきてその痛みで我に帰った。周りの人が動き出している。

青信号になったんだ、歩かなきゃ。。。

博美はこの先の路地にある駐輪場へと向かった。

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