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記憶

あふれてくる湧水を手で押さえつけるようだった。
指の間からどうしても滲んでこぼれて行ってしまう。
その水滴が何かにぶつかって弾けるたびに記憶が一つ蘇るようだった。

やがて湧水の勢いが増し、ヒロミの小さな手では押さえつけることができなくなり、力も尽きてしまった。


ヒロミは記憶を解放した。

今まで忘れようと思っていた思い出の数々。
忘れて新しい自分に生まれ変わろうとがんばっていた自分は次々と溢れてくる記憶の濁流に飲まれていった。

就職するまでアキラのことを忘れた日は一日たりともなかった。
心の底から笑ったことなどなかったのかもしれない。周りの人には気づかれないよう明るく装っていた。
なんであんなに意地を張っていたんだろうと自分を責め続ける毎日。
これじゃ自分がダメになると思い就職と同時に忘れようと決心したのだった。
辛い決心だったけどこれが大人になることだと自分に言い聞かせ続けていた。


ヒロミは熱帯魚ショップの青い魚の前で立ちすくみ、動けなくなっていた。
記憶の濁流に飲まれながらも必死に耐えていたのだ。


セーターの毛糸をはらはらとほどいていくようにヒロミの心が露わになってきた。
あたかも青い魚がその毛糸の先を咥えてほどいていっているように。


むき出しになったヒロミの心。

それは風が吹いただけでも空気との摩擦で傷つきそうだった。
それはもしかしたらはじめての体験だったのかもしれない。
いつも何があっても心には触れないように大切に何かで包み込んでいた。
それが危機的に心を動かされる場面でも最後の最後に自分を守ってくれた。
今、その包むものを失くしてしまったのだ。

ヒロミは目に涙が溢れてくるのを感じた。
自分の心を自分の手で包み込むようにして涙を必死にこらえようとしていた。

青い魚は水槽の中を自由に泳ぐのをやめたようでヒロミの方に顔を向け水中を漂っていた。

小説 青い魚(下書き)

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