Top > 小説 青い魚(下書き) > 上司

上司

朝の通勤電車はストレスそのものだった。
今まで自転車で学校やバイトに通っていたので、就職とともに生活はまるっきり変わってしまった。
時間をずらしてもどうにもならない。
一か月もするとどうにかして快適に通勤しようという思いはなくなってしまって、ただ心を失くしたように電車に揺られていた。

会社のある最寄り駅に着くころにはヘトヘトになっていた。
もとから人混みは苦手だったのだ。
会社の近くに引っ越そうかと思ったけど家賃が高すぎるので早々にあきらめてしまっていた。


こんなのいつまで続くんだろう?


もともとなんとなく就職してしまったので目的意識もなくすべてが苦痛に思えた。


会社では頑張り屋さんだと言われた。
頑張り屋さんだからといって仕事ができるというわけではない。
ただ負けん気の強さが表にでているらしく周りの人はそう言っていた。
ヒロミはとにかく今はこの仕事ができるようになりたかったし、就職することをきっかけにアキラのことを忘れようとしていた。
だから周りの人には仕事に対して熱意があるように感じられたのではないかと思っていた。

でも、ヒロミの気持ちは空回りしていた。
がんばろうと思うほどミスが増えた。
直属の上司の部屋に呼ばれ怒られることがよくあった。
その上司というのがヒロミの嫌いなタイプで無駄に太った体には敵意を感じていたし、怒られている最中はとにかく「はい、はい」と返事をして平謝りで早くこの時間が終わらないかということばかりを願っていた。
そういうヒロミを見て同僚達はいつも温かい言葉をかけてくれた。
その上司はヒロミには期待している、みたいなことを言っていたが同僚から見ると欲求不満のはけ口にされているように思えるようだったし、自分でもそうじゃないかと思っていた。

そんな無駄に太ったやつにバカにされるのがくやしくて、ヒロミは一人で遅くまで残業することもあった。
やり切れなかった仕事を自宅まで持ち帰えることもあった。
自宅で机に向い書類を作成しているとき、そういえばアキラもこうやって家でパソコンに向かって何かやっていたな、とその時のことを思い出した。
ヒロミはふと右の少し下のほうに目線をやった。
それは同棲していた時のアキラの目線だった。
その目線の先にはヒロミと青い魚がいる。
アキラはこんな感じで私と青い魚のことを見ていたのかな、と思った。


 
アキラも就職していろいろ大変だったんだろうなぁ。


 
ヒロミは就職してからのアキラのことを思い出していた。
朝起きた時の魂の抜けたような顔、ただいまと帰って来た時のやつれた顔、パソコンに向かう後姿、とにかく学生時代とはまったく変わってしまったという印象だった。

そして当時は自分が取り残されているような気持ちになっていたのを思い出した。
アキラの目線で自分の姿がぼんやりと浮かび上がりその周りにあった家具やテーブルなども次々と浮かび上がった。そして一つのことに気付いた。
いや、取り残されていたんじゃない、自分から世界を遮断していたんだと。

 
どうして自分のことばかりしか考えられなくなってしまっていたんだろう?
そんなアキラにもっとやさしくしてあげたかったなぁ。
アキラの好きだったコーヒーを入れてあげたりだとか夜食を作ってあげたりだとか肩をもんであげたりだとかそんなことしかできなかったかもしれないけど。


 

同僚がヒロミを呼ぶ声がする。
あぁ、またあの上司が呼んでいるようだ。
また怒られるのかな?
今度はどんな内容で?
どのくらいで終わるのかな?
あっ、始まった。
そうそう、一番最初に大声を出すんだ。
もう何を言ってるかわからない。
支離滅裂だよ、この人。
とにかく、はいはいと相槌していよう。
早く終わらないかな?
あぁ、今回は何となく長そう。
なんか唾がたくさん飛んでそう。
もういやだ、ずっとうつむいていよう。
あれ、だんだん声が小さくなってくる。
どうしたんだろう?
どんどん遠ざかっていくような感じがする。
あれ?

  

  

小さくなっていく上司のどなる声と交差するようにエアレーションの低い音が聞こえてきた。
その音の隙間から熱帯魚ショップの外の街の喧騒が浮かび上がってくる。
青い魚はヒロミの方を向いて水中であまり動かずにいた。
ヒロミは青い魚に引き寄せられるように、少し屈んで青い魚がいる水槽に顔を近づけて右手の手のひらを水槽のガラスにくっつけた。
それは手のひらを通じて青い魚と会話をしているように見えた。

ヒロミの心の中はアキラのことで満たされつつあった。
青い魚がヒロミの記憶の海を泳ぎながら、アキラの記憶を一つ一つ蘇らせようとしているようだった。

小説 青い魚(下書き)

関連エントリー
映画研究会上司転機夕焼け電車ヒロミアキラある朝隔たり就職スーツ記憶青い魚熱帯魚熱帯魚ショップ社会人半同棲アキラ駐輪場
カテゴリー
更新履歴
映画研究会(2008年3月26日)
上司(2008年3月20日)
転機(2008年3月18日)
夕焼け(2008年3月 5日)
電車(2008年2月27日)